
公文式は目の前にあるものをすぐになんとかしようという、小手先の技術や知識を教える塾ではありません。長い目で子供の能力全体を最も効率よく高めていこうとする学習法です。
教育
教育を「教」と「育」に分けてみると、「教」は教えることであり、「育」ははぐくみ育てることといえます。教育とは、この二つがバランスよく子どもを伸ばすことであると考えることができます。学校教育と家庭教育を分けると、学校は「教」、家庭は「育」が主体といえます。公文式は「教」だけでなく「育」、つまり学校でなく家庭教育の立場に立ったものです。
子どもの器
知識を受け入れて学力をつけるには、それに応じた器が必要です。家庭教育の役割は器づくりにあり、公文式は子どもの器を限りなくひろげていこうとするものです。器とはその子の能力であり、やる気や集中力、学習態度なども含まれます。
子どもの能力差は、世間一般に考えられている以上のものがあります。それなのに、この能力差の実態をあまり知ろうともしないで、画一的なものを押しつけようとするから落ちこぼれが起きます。世間一般のやり方は、子どもという器の大きさを知ろうともせず、その中に器以上の分量をつめ込もうとする方法です。それにくらべて、公文式は器そのものを大きくする方法です。
竪町教室は、0才、1才、2才、障がい児さんも、幼・小・中・高校生もその子自身の器を大きくしていくのですから、意欲さえ育ててやれば、だれでもその子のペースでどこまでも伸びていきます。教材が先に進んでいけば、どんどん器が大きくなります。すなわち処理能力、理解力、応用力が高まっていくのです。
竪町教室の多くの子どもたちが学年を越えていっています。器さえ大きくしておけば、後は自然に中身がついてきます。受験地獄は、器の大きさが足りないのに気づかないで、中身が足りないと思い込んでいるから起こります。ですから、いくら時間をかけて勉強しても、中身はこぼれていくだけのことが多いのです。
器づくりは、能力開発とも脳力開発ともいえます。それに対して中身は知識といえます。公文式は知識を与える塾ではありません。能力開発で器づくりをし、子どもたち自身が知識を自分の力で(自学自習で)勝ちとっていきます。ですから、結果として知識も楽にたくさん身につくのです。